東郷平八郎(1847〜1934)


明治から昭和前期にかけての海軍軍人。薩摩藩士東郷吉左右衛門の四男として薩摩国鹿児島郡下加治屋郷(現鹿児島市加治屋町)に生まれる。初め仲五郎と称し、元服して平八郎と称す。文久三年(1863)17歳で薩英戦争に参加したあと、慶応三年(1867)薩摩藩の海兵隊に入隊、戊辰戦争にも鹿児島藩軍艦「春日」乗組員として参戦し、幕府海軍と戦った。明治維新後の新海軍においては明治四年(1871)二月から七年間、イギリスに留学、帰国後明治十二年海軍少佐、明治十九年海軍大佐に昇進、また明治二十七年の日清戦争においては、巡洋艦「浪速」艦長として出役している。終戦後、明治三十一年海軍中将、明治三十六年連合艦隊司令長官に就任、翌年海軍大将に昇進した。明治三十七年に始まった日露戦争では全期間にわたって自ら主要作戦を指揮し、特に明治三十八年五月二十七日の日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を撃破、歴史上にその例を見ない完勝を収めた。将師としての東郷の人格と統率力はすぐれ、ネルソンと並び称される救国の英雄として内外の称賛と尊敬を受けた。日露戦争後、明治三十八年十二月海軍軍令部長、明治四十年九月伯爵を授けられ、明治四十二年十二月軍事参議官となり、大正二年(1913)四月、元帥。その後大正三年四月から大正十年三月まで東宮御学問所総裁をつとめ、昭和九年(1934)五月三十日の死去直前に侯爵となり国葬となった。