阪谷朗廬(さかたにろうろ)
漢学者。川上郡九名村(現小田郡美星町)に坂田良哉の三男として生まれる。通称素三郎のち希八郎、名は素、字を子絢、号は朗廬。六歳で父良哉に従って大坂に赴き奥野小山、大塩平八郎に学ぶ。十一歳で江戸に移り同郷の師昌谷精溪に入門、ついで十七歳で古賀トウ庵の塾「久敬舎」に入門した。二十六歳の時、母の病で帰宅する。嘉永四年(1851)、後月郡簗瀬村櫻谷(現後月郡吉井町)に櫻溪塾を開く。嘉永六年郷校興譲館に招かれる。開国論を主張し、議会主義、海軍充実を説く開明派であった。明治元年(1868)広島藩の藩儒に迎えられ、さらに明治五年四月、陸軍省に勤める。以後文部、司法、大審院、内務省など要職を歴任。この間、福沢諭吉らの明六社に加わり、五十歳代で英・独語の勉強をし、世界共通語の必要を説いた。退官後、明治十二年東京学士会院議員に選ばれた。また講堂春崖学舎を開設したが、程なく没した。著書に「朗廬文鈔」「朗廬全集」「評註東莱博義」「田舎話」「日本地理書」「阪谷朗廬先生書翰集」などがある。 | ![]() |
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