三島中洲(みしまちゅうしゅう)


漢学者、詩人。名は毅、字は遠叔。号は桐南、のち中洲または絵荘という。窪屋郡中島村に生まれる。14歳で山田方谷に従学する。29歳のとき昌平黌に入り佐藤一斎に学ぶ。30歳で備中松山藩に仕官し、藩学有終館会頭となり、のち学頭に進む。文久元年(1861)藩学教授の傍ら家塾の虎口溪舎を小高下に起こし、明治初年最も隆盛を極め、学徒は十二藩に及び塾舎常に60〜70人を越す。明治5年(1872)朝廷の召しに応じ法官となる。明治10年大審院判事を退職し漢学塾二松学舎(現二松学舎大学)を創設する。後に、東京帝国大学教授、明治29年東宮侍講となる。大正4年(1915)宮中顧問官となる。著書に「霞浦游藻」「三日文詩」「論学三百絶」「中洲詩稿」中洲文稿」「虎口存稿」など多数がある。 掛け軸