犬養毅(1855〜1932)


政党政治家。木堂と号す。備中庭瀬村字川入(現岡山市川入)の郷士(大庄屋)源左衛門の二男として生まれる。明治五年(1872)小田県庁地券局に勤め、明治八年上京。共慣義塾を経て翌年慶応義塾に転学、明治十三年卒業直前に退学した。この間、「報知新聞」に寄稿、西南戦争従軍記者として名声を博した。明治十三年豊川良平とともに「東洋経済新報」を発刊、翌年統計院権少書記官に任命されたが、明治十四年の政変に伴い、大隈重信に従って退官した。明治十五年立憲改進党の創立に参画、「郵便報知新聞」「秋田日報」を経て、「朝野新聞」の編集をしながら大同団結運動を推進、大隈の腹心として行動した。同年東京府会議員に当選、明治二十三年第一回衆議院議員選挙以来、毎回岡山県から当選した。明治二十七年中国進歩党、明治二十九年進歩党を結成、松方正義内閣を支持して薩派に接近、明治三十一年自由党・進歩の合同した憲政党に参加、隈板内閣で尾崎行雄が共和演説事件で辞職後文部大臣に就任、同党の分裂後は憲政本党に属し、以後長く野党少数政党の幹部として薩閥打倒に励んだ。明治四十三年立憲国民党を創立したが、党内改革派と別れ、大正二年(1913)政友会の一部とともに、第一次護憲運動に参加している。大正七年以降は、普通選挙の実現と軍縮を主張し、大正十一年革新倶楽部を組織、翌年第二次山本権兵衛内閣の逓信大臣となった。大正十三年清浦奎吾内閣の成立にともない第二次護憲運動に参加、政友会、憲政党ともに護憲三派を形成、加藤高明内閣(護憲三派内閣)で再び逓相に就任している。大正十四年政友会と合同、自ら政界引退を表明したが、昭和四年(1929)田中義一の後任難から政友会総裁に就任、昭和六年首相となり、満州事変後の難局に当たった。翌年五月、いわゆる五・一五事件で海軍中尉山岸宏、三上卓ら数人の青年将校が官邸を襲撃、「話せばわかる」「問答無用、撃て」のやり取りの後、拳銃で撃たれ、同日夜半死去した。生前は眼光鋭く、気節に富み、気力旺盛、情に厚く、清貧に甘んじたといわれる。また文章を能くし、書は枯淡、一家を成し、刀剣にも親しんだ。なお高梁中学校へは明治四十三年(1910)六月来校し、全教職員、生徒に講演を行っている。