福西志計子(1847〜1898)


順正女学校の創設者。松山藩士福西伊織の一人娘として生まれる。名は繁、後年志計とも志計子とも呼んだ。7歳で父と死別したが、母の意向で隣家の山田方谷に漢学を学ぶ。慶応2年(1866)17歳の時、井上助五郎を養子として迎え、結婚生活に入った。
明治8年(1875)29歳の時、木村静と共に岡山の岡山裁縫伝習所に就学した。翌9年業を終え、10月木村と共に高梁小学校に新設された女紅場(翌10年より裁縫所と称される)の教師になった。明治12〜13年に金森通倫、新島襄らのキリスト教伝道に接し、木村と共にキリスト教婦人会を結成した。しかし、このような活動が教師として不適格と批判され、14年辞職した。
14年12月10日、木村と共に順正女学校を高梁向町の黒野氏宅を借りて開設した。中四国で最初の女学校であった。教育内容は当初裁縫を主とした。15年、金森通倫により洗礼を受け、高梁基督教会の創設にも加わった。翌年迫害の中で大学を創設したマリー・ライオンの伝記に感銘し、青年女子の教育を天職と自覚した。18年1月7日、文学科を併置し女学校としての基礎を固めた。初代校長は柴原宗助で、彼女自身は生涯経営者・教師であった。非常に厳格で人を畏服せしめ、男性的な性格であったといわれる。
29年肺結核に倒れ、以後療養生活に入る。当時の校長伊吹岩五郎は、臨終までの3ヶ月間、聖書を枕辺に読み、共に祈祷したが、彼女が特に愛誦したのはコリント書で、特にコリント後書12章第9節の「我恵汝に足れり」の句に、病気の焦燥から豁然として安んじたという。享年52歳。
胸像