山田方谷(やまだほうこく)


幕末の政治家、財政家、教育者として知られる。優れた漢詩人でもあった。備中松山藩領阿賀郡西方村(現高梁市中井町西方)に生まれる。名は球、字は琳卿、通称は安五郎、幼名は阿燐、方谷はその号である。聡明で、3,4歳より字を書き、その大字は見事であった。5歳で新見藩儒丸川松隠の回陽館塾生となり朱子学を学ぶ。周囲の人々から神童といわれ、人の問いに治国平天下と答える。不幸にして14歳で母を、翌年父を失うが、遺訓によって農商のかたわら悲痛の情を抑え日夜学問に励む。
文政8年(1825)、篤学の名声広まり微衷松山藩主板倉勝職より2人扶持を支給され、学問所で修業の許可を得る。文政12年、25歳の時には藩校有終館会頭(教頭)に抜擢される。京都に松隠の知友寺島白鹿を尋ねた後、江戸で佐藤一齊に主として陽明学を学び、佐久間象山や塩谷宕陰らの学友と学問、研究に没頭した。天保7年(1836)帰藩し、翌年有終館学頭(校長)に昇進した。藩内の子弟は初めて学問をすることの意義を知り精励した。
天保9年、家塾牛麓舎をおこし、旧師の寺島白鹿の長男義一が京都より入門、進昌一郎(号は鴻渓)もこの年に入門、後に塾長となる。天保14年には当時14歳の三島毅(号は中洲)が入門する。弘化元年(1844)世子の板倉勝静、方谷に経史を侍読させて、他日、大いに用いるべきを知る。嘉永2年(1849)、板倉勝静が藩主となり、元締役兼吟味役として藩財政の立て直しのため、藩政改革の大任を与えられた。安政4年(1857)までの8年間に産業振興を中軸に行政、財政、兵制、教育の各分野の改革を計画的に進め、ものの見事に成し遂げて天下の耳目を驚かせた。
安政4年、藩政改革の成功をもとに、勝静は寺社奉行となる。勝静はさらに老中へと進み、徳川幕府最後の老中首座となり、幕政の中心人物となる。方谷はその政治顧問として国政の舞台で活躍する。安政5年長州藩士久坂玄瑞、翌安政6年長岡藩士河井継之助が来遊する。家を長瀬の里(現方谷駅)に移し、水山に陸田を開く。
明治元年(1868)、松山城の無血開城を実現し、主君や領民の安全を守る。以後は世事をさけ専ら後進の教育に心血を注ぐ。明治2年、長瀬陰宅(現在伯備線方谷駅)の傍らに塾舎を建て、学規5条を掲げて訓育に臨んだ。翌年10月には母の出所である小阪部に居を移す。長瀬塾、小阪部塾には全国から学徒が集まり、門下生は千人を越えたといわれ、教育に偉大な足跡を残す。
明治6年には、閉鎖されていた閑谷学校の再興につくし、以歿年まで春秋二回の講義を欠かさなかった。「備中聖人」と称せられる。著書に「義喪私議」「献策国字稿」「集義和書類抄」など多数あり、「山田方谷全集」三冊に収められている。明治10年、73歳、小阪部塾舎にて没す。
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